ネットが「異世界」だった時代の終焉-2015年、全国民が情強になった日

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ネットが「異世界」だった時代の終焉

かつて、インターネットは現実の自分を隠して楽しむ「異世界空間」でした。
しかし、2010年代のスマートフォンの普及とSNSの台頭によって、その境界線は急速に曖昧になっていきました。

今や個人の不用意な一言が「本人の解雇」だけにとどまらず、「企業の信用失墜」や「巨額の損害賠償」にまで発展する時代です。

今回は、90年代後半から現代に至るまでの日本のネット社会の歴史を振り返ります。
(※本記事は個人の体験と考察に基づく意見です)


昔のネットは「匿名」の安全圏だった

90年代後半~00年代前半のインターネットは、今とはまったく違う世界でした。

  • ネットへの入り口はPCのみ
  • ハンドルネーム文化が主流
  • 実名SNSも存在しなかった
  • ネット人口自体が少なく、現実社会と物理的に分断されていた

当時、ネットの炎上が社会問題化することはほとんどありませんでした。コミュニティは小さく、情報の拡散力も今とは比べ物にならないくらいゆるやかだったためです。当時は「ネット民=パソコンオタク」と見下される風潮もあり、画面の向こう側は完全に「異世界」として成立していました。

風向きが変わった「mixi」の登場

2004年、Facebookの上陸に先駆け、日本では招待制SNS「mixi」が爆発的に普及しました。今思えば、匿名掲示板文化からこの半実名のmixi文化への移行が、ネットの性質を大きく変える転換点になったと感じています。

「足あと」で可視化したリアルな人間関係

mixiの面白さ、そして怖さは「足あと」機能にあります。誰が自分のページに来たかをリアルタイムで確認でき、現実の友達と「マイミク」として繋がる。

いつの間にかネットは「知らない誰かと遊ぶ場所」から、「知っている誰かと交流する場所・相互監視の場所」へと変わっていきました。

この頃から、ネット上の発言が現実の人間関係に影響を及ぼし始めます。
匿名文化の安全圏は、ゆっくりと解体されていくことになります。

ネットとリアルの距離が縮まった時期

個人的に、ネットの空気が変わったと感じ始めたのは2000年代後半でした。

X(旧Twitter)やFacebookなどのSNSが広がり、個人の発信がこれまで以上に影響力を持つようになりました。連日、いわゆる「炎上事件」がテレビのニュースで取り上げられるようになったのも、この頃からだったと記憶しています。

これまでの、ある程度分離されていたオンライン上の言葉と、現実の人間関係や社会的評価との距離は急速に縮まり、「ネット上の発言も社会的責任を伴う」という認識が徐々に共有されていったように思います。

ネットを「持ち歩く」時代の到来

その後の流れは、皆さんも身をもって感じている通りです。
2010年代、スマホの普及によって日本の隅々にまでネットが行き渡りました。正確に言えば、誰もが「同じ情報」に瞬時にアクセスできる魔法の端末を手に入れたのです。

ネットは「わざわざPCを開いてアクセスする場所」から、「24時間、常にポケットの中にあるもの」へと姿を変えていくことになります。

スマホ普及で変わったネット文化の転換点

時代の境目をはっきりと感じたのは2015年頃でした。

これまでPCを中心に育まれてきた日本独自のネット文化は、スマホの普及によって利用者層が一気に拡大し、新しい価値観へと上書きされていきました。

日本でスマホの普及率が過半数を超えたのが2014年頃とされているので、この変化は決して主観的な感覚ではないような気がします。

かつて一部のオタクのものだった「ネット空間」は、全国民の「共有財産」となり、いわゆる「情強(情報強者)」が標準搭載になった時代です。 近所のおじいちゃんやおばあちゃんまでもがスマホを使いこなす姿を見て「本当に時代が変わったんだな」としみじみ実感しました。

昔のネット空間は、あやしい情報に“あえて”踊らされたり、くだらない噂に“あえて”一喜一憂したりする一種の「内輪ノリ」的な空気が漂っていましたが、現代では誰もがSNSで即座に「正解」を見つけ出し、効率よく立ち回り、常に最適解を目指すようになりました。

嘘が暴かれやすくなったのは間違いなく良いことですが、同時にあの頃のネットが持っていた「得体の知れないワクワク感」や「カオスな面白さ」が消えてしまったのは少し残念に感じています。もしかしたら、私たちは便利さと引き換えに、少しだけ“人生の余白”を失ったのかもしれません。

ネットとリアルを切り離すことは不可能

リアルと繋がったことで、ネットは常に「誰かに見られている場所」へと変化しました。不用意なことは言えず、常に「正解」や「見栄え」を気にしなきゃいけない。今のネットは、かつての自由な「異世界空間」というより、逃げ場のない「可視化社会」に近いのかもしれません。

しかし、もはやネットとリアルを切り離すことは不可能です。画面の前での不用意な一言が、翌朝には仕事やこれまでの生活を壊してしまうかもしれません。「投稿ボタン」を押す指の先が、そのまま日常になったのです。


匿名は幻想に近い

「顔出ししていないから大丈夫」「本名じゃないから問題ない」というのは危険な思い込みです。90年代の掲示板時代から、不適切な発言で逮捕される事例は存在していました。ネットに“完全な匿名”が存在した時代は、実は今まで一度もありません。

位置情報は思ったより簡単に特定される

少し話は逸れますが、かつて交通事故を目撃し、110番通報をしたことがあります。その際、警察から「今、〇〇付近からお電話されていますね?」と即座に位置を言い当てられました。

スマホのGPSはオフにしていましたが、誤差わずか数メートル単位で把握されていたのです。

GPSの設定に関係なく、通信網を使えば発信場所は特定できる!?
その体験をしたとき、「匿名」や「隠れているつもり」は幻想にすぎないと強く実感しました。

「画面の向こうならバレない」という思い込みは、人生を壊す最大の引き金になります。

「一生ROMってろ」という最高の防衛教育

と、ここまで偉そうに語ってきましたが、実は私自身、X(旧Twitter)やInstagramに投稿をしたことがほとんどありません。Facebookに至ってはアカウントすら持っていません。

なぜなら私は、ネット黎明期の「一生ROMってろ(黙って見ていろ)」という言葉が当たり前に飛び交う、殺伐とした言論空間で育ってきたからです。「安易な発信は身を滅ぼす」という恐怖が骨の髄まで染み付いているので、気軽に全世界に発信できるSNSはあまりにハードルが高すぎました。

だから今もその波には乗らず、旧態依然としたブログで細々と発信を続けています。

臆病さが、最強の盾になる

ネットと現実が完全に同期し、一瞬のミスも許されない今の時代。あの頃に植え付けられた「発信に対する臆病さ」や「慎重さ」こそが、図らずも私を守る最強の盾になっていたのかもしれません。

情報発信の自由があるからこそ、投稿ボタンを押す前に「これはネット上に一生残り続ける言葉」だと一呼吸おく。 そんなかつてのネット民が持っていた「慎重すぎるほどのリテラシー」が、今の時代にこそ最も必要な姿勢なのかもしれません。

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